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思想が影響を与えた?中国美術との関係について

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中国思想と美術について紹介します。中国の美術と一言で言っても絵画、書道、陶磁器、漆器、青銅器などさまざま。例えば、秦の時代の「兵馬俑」や、宋の時代の「山水画」、中国古代文明を象徴する「青銅器」、写真を見てみると小学校や中学校の歴史の教科書でも登場した美術品も数多くあります。その美術品の背景には、殷からはじまり清までの王朝文化や政治、そして中国の三教(仏教・儒教・道教)が強く出ている作品が多くを占めています。

神仙思想を描いた「帛画」と「仙人像」

中国美術には、さまざまな思想が反映されています。そのひとつが古代中国の「神仙思想」です。

これは神仙術(養生・錬丹・方術など)により、神人や仙人になることを目指す思想で、最終的な目的は不老長生(不老不死)とされていました。前漢に編まれた「史記(武帝の時代、司馬遷によって編纂された中国の歴史書)」には、三神山(蓬莱、方丈、瀛州)には仙人がおり、彼らは不死の薬を持っていると記されています。風波が荒く人々を寄せ付けようとしない三神山には、黄金や銀でつくられた宮殿があり、神仙の言い伝えをより強くしました。仙人になるために修行をする者を「道士」と呼び、またその修行方法は様々な説があり、呼吸法・歩行法・食事の選び方・住居の定め方・房中術などと言われています。心身の清浄を保ち、気としての「精」を漏らすことは禁止されており、仙人となるための仙丹にまで「精」を練らなければなりません。内丹術を中心とした仙人になるための修行法は「仙道」と呼ばれています。また、仙人になるための薬剤の研究が唐の時代以降にも継続され、その過程において中国の医学や化学が発達したという背景があります。

そのため、多くの権力者(皇帝)が不老長生を願い、特に昭王や斉の威王、宣王、秦の始皇帝、漢の武帝はかなりの関心を抱いていたそうです。たとえば始皇帝は、徐福という方士(中国古代の方術~卜筮、医術、錬金術などを行った術士)に命じ、蓬莱山へ不死の薬を求めに行かせたといいます。また、漢の武帝は、李少君(りしょうくん)の言葉に従い、竈を祀り、鬼神を信じ、薬剤をつかって黄金の飲食器をつくり長生を試し、蓬莱山の仙人に会って不死の薬を得ようと考えたと言われています。

仙人思想が考えられた背景には、「史記」よりも遥か昔に書かれた「荘子」や、「逍遙遊篇」の「藐姑射之山神人」の記録、「列子」黄帝篇の物語などに記されている、思想が影響しています。『荘子』には、処女のようにしゃくやくとした神人がおり、食せず、雲気や竜に乗って四海の外に遊ぶ、と記載があります。神人・仙人は、神通力を得て、融通無礙の世界に遊ぶ者、宇宙の精神と合一したこのような人物は、真人、至人ともよばれています。

『列子』には、政治に心身が疲弊した黄帝が夢のなかで華胥氏之国をみます。華胥氏之国とは、国王が不在にも関わらず国が安寧に治まり、民が水の中でも溺れず、火に入っても焼け落ちることがなく、空中を自由自在に飛ぶこともできる、と記されています。また、『列子』の湯問篇には、渤海のはるか東に、岱輿(たいよ)、員(いんきょう)、方壺(ほうこ)、瀛州、蓬莱の五つの山があり、そこには、不死の体になる食べ物があり、不老不死の仙人が空を自由に飛び、往来をする、とあります。そして、『史記』の孝武本紀には、武帝が中国の五岳を祷祠(とうし)した記録もあり、後漢の時代には、崑崙山には西王母という仙女が住むという言い伝えもありました。これらの渤海の東で作られた三神山の神仙思想が、徐々に中国の内部へと広がっていったことを示し、仙人神話が「史記」の歴史より以前から中国の各地に存在していたことを示す例と考えられています。

この神仙思想は像や絵画のモチーフにもなり、紀元前2世紀の馬王堆遺跡の副葬品「帛画」には、被葬者を迎える二人の方士と侍女たち、古代中国の神話が題材として描かれ、また後漢時代には、翼を持った羽人といわれる「仙人像」などが作られました。

神仙思想は、5世紀半ば、儒教や仏教に対抗するため、民間信仰、陰陽五行説、道家思想、五行説などと共に中国3大宗教の一つとされる「道教」へと結びついていきます。

「孔子像」など、儒教を題材にした美術

春秋末期の孔子を祖として発展した思考・信仰の体系である「儒教(儒学)」は、中国の政治理念・思想・文化の基調となり、朝鮮や日本など周辺のアジア諸国にも強い影響を与えました。

孔子は周公旦(州の武王の弟)が築いた春秋末期、実力主義が横行し身分制秩序が解体されはじめた魯の国に生まれ、国政に携わっていましたが政争に巻き込まれて失脚。故郷を離れ、思索を深めながら13年もの間諸国を流浪することになります。孔子はまず衛へ5年ほど滞在をします。続いて紀元前493年には、晋に向かいましたが、その後再び衛、宋、鄭、陳、蔡、楚と放浪を続け、生まれ故郷である魯へとたどり着きます。孔子は自らの考える思想を国政の場で実践することを試み「太平の世」を望みましたが、その機会に恵まれることは生涯ありませんでした。優れた能力と魅力を持ちながら、世の動乱の原因を社会や国際関係における構造やシステムの変化ではなく、「仁」と「礼」による個々の権力者の資質を求めたため、実践で必要な政治の感覚や、社会性の欠如を招いたとする考えもあるようです。こうして孔子の唱える意見は聞き入れられることはなく、晩年は失望をし、支配者の元を去ることを繰り返した波乱の生涯となりました。

孔子の思想の基本は「仁」を尊び、また西周の時代を理想とし、力による覇権争いに反省を促すというもので、「仁(人間愛)と礼に基づく理想社会の実現」を掲げます。果たして、「仁」と「礼」とはなんでしょうか。世の動乱は他人をいたわり、尊敬し合い思いやる「仁」の心が失われたことが原因と考え「仁」を説きます。また、この「仁」の心には、親族、身内への仁・「孝悌(こうてい)」、己の私利私欲を抑える自制心の「克己(こっき)」、他人を思い、敬う「恕(じょ)」、自分の心に素直であることの「心忠(ちゅう)」人を決して騙さない「信(しん)」5つの心が重要と考えられています。このように人間愛を説く「仁」は、人間の内面にある「情」にあります。孔子はさらに、内に備わる「仁」が、人に対しての態度や日々の行為として外面に表されたものを「礼」と説きました。そもそも「礼」とは、古代中国において、一般社会の規範と考えられており、行為や態度で外面にあらわれる「礼」を正しく復興させることで、理想社会の実現をしようとしました。また、内面での「仁」を実践し、「礼」として外面に表すことを「克己復礼(こっきふくれい) 」と説きます。「克己復礼」とは、己の私利私欲を抑え、社会の規範である「礼」に従うという意味です。こうした孔子の教えは生涯なんと3000人の弟子を導きました。また、孔子の門人のうち才能の突出した70余人の学生を「七十子」と呼びます。そのうち、さらに優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられています。「徳行」に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、「言語」に宰我・子貢、「政事」に冉有・子路、「文学」に子游・子夏、こうした孔子の優れた弟子たちが多くの弟子を持ち、現代の我々へと語り継がれているのです。

また、孔子の死後、儒家は八派に分かれます。戦国時代になると孟子や荀子に受けつがれ、孔子が説いた「仁」と「礼」の教えのうち、孟子は「仁」を受け継ぎ性善説を説き、「仁」を育てることを主張します。荀子は「礼」の教えを受けつぎ、性悪説を唱えます。「礼」によって私利私欲を抑え、行動を正していく、と考えます。「仁」と「礼」この2つを両立させる「克己復礼」こそが、理想社会の実現と説いた孔子の教えは孟子と荀子によって重視する考え方が違ったようです。

孔子の教えは「論語」にまとめられ、その思想は漢代には国教化、唐代には「科挙(官吏登用試験)」の試験科目とされたため、貴族階級は身に着けておかねばならない教養でした。「論語」は512の短文が全20篇から構成されています。「子曰く」より始まる孔子の言葉には現代の我々にも通ずる数々の教えが存在します。例えば「過ちを改めざる、これを過ちという」過ちは誰でも犯してしまうものです。ただ、過ちを犯し後、それを改めようとしないことこそ真の過ちである、と説いています。「過ちを改むるに憚る(はばかる)ことなかれ」過ちを犯してしまったことを自覚したら、人からの目線や体裁、対面などにとらわれず、すぐに改めるべきだ、と説きます。「故きを温めて新しきを知る、以って師と為るべし」古いことを調べて学び、そこから新しい発見をすることができれば他人に学ばせることもできる、どこかで聞いたことがありませんか? そうです、皆さんご存知の「温故知新」という四字熟語の元となった考えです。「学んで思わざれば即ちくらし。思うて学ばざれば即ちあやうし」学んで、その学びを自分の考えに落とすことをしなければ、身につくことはない。また、自分で考えるだけでは意味を成さず、人から学ぼうとしなければ、考えが凝り固まってしまい危険である、と説いています。このような現代にも通ずる考えが教養となり、そのため論語の一節が書に用いられる、孔子像が描かれる、全国各地に孔子廟が建てられるなど、中国美術とも切り離せないものになったのです。

石窟壁画に代表される中国の仏教美術

中国の三教に数えられる仏教(ほかは儒教・道教)が伝来したのは、文献によると紀元前2年、前漢の時代だといわれています。その後、後漢の桓帝が信者になったこともあり、当時の社会に受け入れられていきます。また、民衆の間へはシルクロードを往来する商人が仏像を持ち込み、徐々に浸透していったものと推定されています。

5世紀に北魏が華北統一した後は、一時廃仏運動があったものの、文成帝の代に仏教は再び盛んになります。多くの寺院、また巨大な石窟寺院なども造られ、仏像や仏の姿を描いた絵が納められました。仏教美術としては、「敦煌・莫高窟」「大同・雲岡石窟」などが有名です。

唐代までは、石窟などに描かれた壁画が中心でしたが、莫高窟からは多数の壁画に加え、幡に描いた仏画、経典の挿絵として描かれた仏画が発見されています。唐以降は、宮廷画家が仏画を制作するなど、仏教を題材にした絵画や書も増えていきました。

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